何をしても楽しく感じないのは、なぜ
中学、高校の時でしょうか。
私は、何をしても楽しく感じない子供でした。
当時は、私なりに一生懸命に、「楽しいこと」を探していました。
友人も出来ました。
遊びに出かけることも覚えました。
自分で決めることもできるようになりました。
それでも、楽しいと感じませんでした。
これは、単に思春期特有のものとは、思えないのです。
なぜ楽しいと感じなかったのだろう
今の私が、中学・高校時代を振り返ってみると・・・。
周りは楽しいことが山積みに感じます。
だから、大人になった時に「あの時、もっとこうしておけば」とか。
黒歴史なんて判断ができるようになるのかもしれませんね💦
ですが、当時の私は、何をしても楽しいと思えませんでした。
そして、どんどん新しいことにチャレンジしようと息巻いていたように思います。
(傍から見ると、反抗期ですかね・・・)
カラオケに行ったり。
プリクラを撮ったり。
部活に入ったり。
いわゆる『青春』と思えることをやりたかったのかなと思います。
そして、大人になることに憧れていました。
大人になったら、本当の楽しいことができると勘違いしていたからです。
楽しいとは何か
当時は、楽しいという言葉に引っ張られていたと思います。
そして「周りが楽しい」と言っていることの真似をしていただけでした。
〇〇さんは、カラオケ行って楽しいって言ってた。
〇〇さんは、彼氏と一緒にいて楽しいって言ってた。
〇〇さんは、プリクラを皆で撮るのが楽しいって言ってた。
そんな、感じです。
自分から本当に見つけようとして動いていた訳ではなく
これといった目的がなく、周りに聞いたことをしているだけ。
だから、自分の中から「楽しい」という感情が湧かなかったのだと思います。
楽しいは見つけるものではない
今から思うと、楽しいことが分からないのに探しても、永遠に見つからないと思えます。
それに、楽しいって見つけるものではないとも思います。
というのは。
自分の中から、自然に湧き上がってくるもの。
そして、湧き上がっている時は、『楽しい』ってわざわざ思っていないな、と感じるからです。
自分が、「楽しいか」「楽しくないか」を頭で判断したい。
だから、わざわざそれについて考えてしまうだけで。
本当に体や心が『楽しい』と感じている時は、頭で考えることはないなと思うからです。
言葉で「楽しい」と使う時も、二通りあるように思います。
自分の体と心が楽しんで、つい「楽しい」と言葉が出るのか。
この場を楽しみたいから、周りに合わせて「楽しい」と言っているのか。
言葉として出た時は、その場で振り返ってみてもいいのかもしれません。
楽しむことは良いことなのか
私は、「楽しいから」する、「楽しくない」からしないという考え方は、違うと思っています。
それは「楽しい」ことが、何かを選択するうえで大切なこととは思わないからです。
「楽しい」は欲の中にも存在しています。
これが膨れると、とてもしんどいです。
そして、とても自己中心でもあります。
だって、欲の「楽しい」は本人が満たしたいだけの存在だからです。
ただ、動かずその場で摂取しようとしている、そんな風に感じます。
本人としては、動いると思うかもしれません。
ですが、感覚としては、周りの「楽しい」を捕ろうと狙っているのだと思います。
もう一度、自分の心に向いて
中学、高校の時に、私は楽しいを探していたと書きましたが
決して思春期だけの話とは思っていません。
大人になっても、自分の「楽しい」を探している時があったからです。
もし、自分の「楽しい」という感覚に不安を覚えたなら
自分が楽しいかどうか考えた時の場面を思い返してみてもいいかもしれません。
そして、何も考えず続けていることがあれば、そこにヒントがあるように思います。
もし今、自分のやっていることが、「楽しいか」「楽しくないか」で判断しようとしているのなら。
自分の「楽しい」は欲からなのか、心からなのか。
その点を探ってみても、良いかもしれません。
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